2007年7月22日日曜日

平井君インタビュー

小学校を卒業して約50年、それぞれ同級生だった皆はどんなことをしてきたのだろうか。 同窓会でたまに会って近況を披瀝することはあっても短い時間の中では思う存分話も聞けないし、話すほうも中途半端で話し足りない。

そこで同級生55人の50年間、一人一人話を聴いてみようと思い立ちました。

きっかけはJTBパブリッシングという出版社が定期購読者のみを対象にした「ノジュール」3月号に掲載された平井君の「私の定年日記」です。 どこまで続くかわかりませんが、一番バッターとして平井君にインタビュー。 それでは。

購入代金よりも修理代金の方が高くついたという愛車マセラッティで富士山麓の別荘へ。

インタビュー:平成19年7月13日@コージーコーナー大塚店

2004年9月に退社するまで33年間勤めた丸紅時代、海外赴任と出張も含めた海外滞在の期間が合わせて20年を超えるという平井君にお盆の迎え火の準備に忙しい合間をぬって波乱万丈の海外生活の話を聞きました。

滝二小卒業後、紅葉中学から玲子夫人と出会った小石川高校に入学。駿台予備校を1年経験して慶応大学経済学部入学。1971年に丸紅の海外鉄鋼関連部門に入社。商社マンとしての33年間はここからスタートしました。

最初の海外赴任は入社3年後の1974年に6ヶ月OJTとしてカナダのバンクーバーに長期出張。その後日本に戻り、最初の本格的赴任は1979年サウジアラビアの首都リヤドでした。駐在員3人のリヤド支店に東京から新人2名が派遣され主に石油パイプラインや淡水化プラントからの大規模な飲料水パイプライン水等の売り込みに活躍。厳しい環境のなかで全員が単身赴任、一軒家での寮生活ということでマージャンに明け暮れた3年間でしたが、たまのリフレッシュ休暇にヨーロッパで夫人と落ち合い、旅行するのが楽しみでした。

1982年に東京本社に戻ったあとも中東への出張が続きましたが、当時イラン・イラク戦争の真っ只中のイラク、バグダッドへの出張中には宿泊していたホテルの近くにイランのミサイルが着弾、郊外のホテルに避難したこともありました。

イラン・イラク戦争の終了した直後のテヘランに赴任したのは1989年のことでした。ペルシャ文明の長い歴史を物語る数々の遺跡や美術品の数々に魅了され、家主親族であるペルシャ人との交流、カスピ海でとれる第一級のキャビアの味など忘れられない思い出が残る3年間の滞在でした。

1992年に本社に帰任して1年後、種々問題多き鉄鋼関連の工事事務所長としてリビア、それも首都のトリポリから遠くはなれた第二の都市ベンガジ近くの電話も通じないキャンプ施設への2年間の駐在が待っていました。この時期はパンナム機爆破事件によりリビアは国連からの制裁を受けていて外国航空機の乗り入れが認められていなかったため出入国に際しては隣国のエジプト、或いはチュニジアから20〜24時間かけて車で入るか、地中海のマルタ島から船で入るしか方法の無い時代でした。何度か陸路を一昼夜かけて移動するなか、車が横転するという事故やカダフィ大佐に反対するグループによる反乱軍と政府軍との小競り合いに遭遇する等大変な思いをしたこともあります。 最後の1年はトリポリオフィスの代表も兼ねることになり、月一回は約1000キロ離れたキャンプ施設との間を車で往復する事になり未だ40代だからこそ出来た経験でした。

定年後始めた太極拳。八段錦の楊名時先生の教室に通っています。

その後、一旦本社に戻り、アメリカテネシー州にある鉄鋼の合弁会社に社長として2年間赴任しました。アメリカ人の社員120-130人を相手にたった一人の日本人として色々な経験をさせて貰いました。農村地域の田舎でしたがゴルフ場は近くにいくつも有り、また車で30分程にあるミシシッピー川でとれる鯰料理も堪能しました。

「今、振り返って33年間の丸紅時代を思い出すと、我ながら波乱万丈、中東地域、リビアでの生活は良くぞ生き延びることができたと思います。私が経験したことは文明国である日本で生活している人々に説明してもなかなか理解して頂けないと思います。」

会社勤めの間余りにも頻繁に世界を飛び回っていたせいか、56歳と9ヶ月にして退職して3年以上たった今も飛行機に乗って海外にでかけようという気持ちは少なく、奥方の住む京都で日本の良さを満喫し、富士山麓の山小屋の生活を楽しみ、住み慣れた滝野川で母上の近くで平和な日本に感謝しながら心配事もなく生活に出来る事に感謝して過ごしている今日この頃です。

ちなみに小石川高校で同学年だった奥方は、現役で東京教育大学(現在の筑波大学)卒業後、修士課程で入学した東京大学で医学博士となった後、白金台の東京大学医科学研究所、駒込の東京都臨床医学総合研究所勤務を経て現在は京都大学ウイルス研究所で癌の研究をしています。